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釜ヶ崎について

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〇 釜ヶ崎の概要

 釜ヶ崎は大阪市南部の西成区の東北端に位置する0.62平方kmの地域です。あいりん地区と称されることもあります。釜ヶ崎には日雇労働者の求人業者と求職者が集まる、全国最大の寄せ場があり、また簡易宿泊所の密集地域として知られています。路上生活者が多く居住しており、住所不定の日雇い 労働者が多いため、人口は明確に把握できていない可能性があります。

Nishinari Gurumet

​〇 釜ヶ崎の歴史

 あいりん地区ともよばれるこの釜ヶ崎は、大阪市西成区の北東部に位置しており、「日雇い労働者の町」、「福祉の町」として知られています。高度経済成長期から暴動が繰り返され、釜ヶ崎は危険な町として認識している人も多いかことでしょう。

 釜ヶ崎に貧困層が集まったのは、かつて日本一のスラムと言われていた名護町(現在の日本橋界隈)の強制立ち退きがあったからです。釜ヶ崎には、強制的に移住させられた人々を収容するために、泊り客が自炊する「木賃宿」が建てられました。その後、空襲で大部分を焼失しますが、下宿旅館として再出発し、50年代には有数の「ドヤ街」にまでなりました。立地条件が良かったこともあり、釜ヶ崎は巨大化し、当時の住民の半数は簡易宿泊所や簡易アパートを拠点にしており、そのうち4割は定職を持たない移動労働者、2割は無職でした。不就学児や長欠児も多く、暴力団による犯罪や売春、麻薬密売、盗品売買も目立つようになってきました。

 釜ヶ崎といえば、暴動のイメージが強いと思う人もいるかもしれませんが、その背景には公共職業機関が介在しなかったことがあり、悪質な手配師や暴力団の中間搾取を受けていた日雇い労働者の不満が、暴動という形で表れたのです。

 そこで行政が、公的に就労を支援する形でいくつかの施設を起こし、地域名を釜ヶ崎から「あいりん(愛隣)」に改め、医療・住宅・労働の3機能を併せ持つ「あいりん総合センター」を設けました。

 こうした行政の対応を見ると、あいりん地区が現在でも「貧困の街」のイメージが残ることは不思議に思えないでしょうか。

 バブル崩壊前までは、日雇い労働市場が生活に困窮する者に就労の機会を提供できていた。しかし、バブル崩壊後はそうした機能が期待できず、行政には支援や対策のコストだけが重くのしかかったのです。

 さらに、このころ活発に展開されるようになった民間の支援活動の統制が取れていなかったことも、貧困層をサポートするセーフティネットが複雑化する原因になったのです。多様なセーフティネットが存在したため、生活困窮者があいりん地区に集中し、貧困の地域加速が進行したのです。

 現在でも、日雇い労働者たちの高齢化に加え、他地域からの生活困窮者の流入も増えていますが、その中で社会的孤立に苦しんでいる人は多いようです。見知らぬ人同士が路上で会話したり、親しい仲で酒を交わしたりすることはあっても、互いのプライバシーには干渉しないという暗黙の了解があり、社会的孤立が深まっています。

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